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イラン核合意再建交渉の『周辺』 -求められるイラン核合意再建-

2022年 8月 17日

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企画調査部 布施 哲史

ロシア・ウクライナ戦争の影に隠れて、世界の注目度が下がっていたイラン核合意再建交渉が、この夏動き出そうとしている。本稿では、国際政治学者で放送大学名誉教授の高橋和夫氏のブログで紹介された二つの分析を紹介したい。これらはイラン核合意再建交渉の争点や、米国・イラン双方の思惑、周辺諸国の動向について、多くの分析や考察とは異なる、別の角度からの背景分析となっている。

1. イラン核合意再建交渉、直近の状況

先ずはおさらい。イランの核開発に対する国際的な経済制裁を解除することと、イランの核開発を制限することを交換条件として、イラン核合意(正式名称は「包括的共同行動計画(JCPOA)」)が2015年7月にイランと6カ国(米・英・仏・独・ロ・中)の間で結ばれ、国連安保理でも決議された。しかし2016年の大統領選挙に勝利して政権に就いたトランプ大統領は、2018年5月に核合意からの一方的離脱を発表し、米国は対イラン経済制裁を再開した。イランは対抗措置として、核合意で定められた核開発の制限義務を段階的に解除し、現在は核合意以前のレベルを超えて核開発を進め、核合意で3.67%が上限とされたイランのウラン濃縮度は、現在60%に達している。イラン核合意への復帰によるイランの核開発の制限を選挙公約として、2021年1月に発足したバイデン政権は、同年4月からイランとの核合意再建間接交渉を開始するが、イラン大統領選挙後の8月に保守強硬派のライシ政権が誕生したことで交渉は中断する。11月にライシ政権が交渉に戻り、今年2月には交渉は「最終段階」と言われたが、合意当事国のロシアによるウクライナ侵攻と米欧によるロシア制裁の影響から、交渉はまた停滞した。この停滞を打破するため、7月26日に、EUのボレル外交安全保障上級代表が核合意再建草案を提示し、これを契機としてウィーンでの間接協議が8月4日から再開された。

交渉に臨むイランのバゲリ・カニ外務次官 (写真:AFP)

8月8日、EU仲介の「最終文書」案の提示

米国とイランの間接交渉を仲介するEUは、8日に交渉妥結に向けた「最終文書」を英国、フランス、ドイツ、ロシア、中国の当事国に示した。この「最終文書」に対して、米国側は「合意の用意がある」と述べたが、イラン側は「包括的検討が必要」としてテヘランに持ち帰って検討するとした。またイランは、これは「最終文書ではない」との認識を示す。

8月15日、イランの回答

1週間の期限とされた「最終文書」へのイランの回答は、15日深夜の期限にEUのボレル外交安全保障上級代表に示された。イランの最高国家安全保障会議が15日夕方に開かれ、この問題について議論し決定がなされた。アブドラヒアン外相は記者会見で、ワシントンとテヘランは3つの重大な問題についてメッセージを交換しているとして、「米国側は2つの問題に対して口頭で相対的な柔軟性を示したが、3番目の保証要求についてコメントしなかった。」と述べた。その上で、「イランは十分な柔軟性を示しており、今度は米国が柔軟性を示す番だ」とした。イランは8日の「最終文章」を受け入れるのか否かについては言及していない。なおイランは2日以内の米国の回答を求めている。

アブドラヒアンが言及した3つの重大な問題について、彼は (また米国、EUも) 具体的に言及していないが、それは、1) イラン革命防衛隊のテロ組織認定、2) IAEAの保障措置協定、3) 米国の再離脱防止保証 だろうと言われている。しかし、この見方は定まっておらず、先週イラン側が特に強調している 「経済的利益の保証」が含まれていると言う見方もある。

米国の対応は?

米国とEUは16日に、「最終文書」へのイランの回答を精査していることを明らかにした。

  • No.69 イラン:EUが核合意再建に向けて「最終文書」を提示
     中東調査会、中東かわら版、2022年8月9日
  • イラン核合意再建交渉、曲折も EUは「最終文書」提示
     日本経済新聞、2022年8月9日
  • Russia-Ukraine war: UAE not 'taking sides' as Gulf countries remain quiet
     Middle East Eye, February 27, 2022
  • Divergences over ‘final text’, UN probe as fate of Iran nuclear deal unclear
     Amwaj Media, August 9, 2022
  • We are at the beginning of the end of an agreement, says Iran’s FM
     Iranian Student’News Agency, August 16, 2022
  • Iran Says Some Issues Still Pending as Deadline for Nuclear Deal Looms
     Wall Street Journal, August 15, 2022
  • Tehran will present "final" views but not say "yes" to a deal now
     Eurasia Group, August 15, 2022
  • Iran submits a ‘written response’ in nuclear deal talks
     AP, August 16, 2022
  • イラン外相、核合意再建で「解決すべき課題」
     日本経済新聞、2022年8月16日
  • Iran submits response on nuclear deal restoration as gaps narrow
     Amwaj Media, August 16, 2022
  • 米・EU、核合意再建「最終文書」に対するイランの回答を精査
     ロイター、日本語ニュース、2022年8月17日

2. 核合意再建か崩壊か 「イラン経済にとっての二つの重要なシナリオ」

Deep Data : Two vital scenarios for Iran’s economy (by Amwaj Media)

イラン側はこれまでの核合意再建間接交渉の中で、今回の核合意に至った際にイランが得られる経済的メリットの保証を要求している。米国の制裁解除によってイランの原油輸出は公に再開され、金融制裁が緩和されることにより、イランは原油輸出を中心とする貿易の利益と外資による投資のメリットを享受でき、国内経済を立て直すことができる。しかし、トランプ政権がそうであったように、それはその時の米政権の思惑次第であり、核合意からの離脱と制裁再開が再度行われれば、イランの経済立て直しは元の木阿弥となる。2024年の米国大統領選挙でバイデンが、または民主党候補が勝つとは限らず、トランプの再登場や共和党のトランプモドキが2025年から米国大統領となることも十分にあり得る。そしてその時米国は再度の核合意からの離脱を行う可能性が高い。このような状況の中で今、核合意を再建することに意味があるのか? イランの体制指導部内だけにとどまらず、イラン社会にもこの議論はある。

この問題意識に対して、英国を拠点としてイラン・イラク・アラビア半島の専門家(研究者・ジャーナリスト)が作るウェブサイトであるAmwaj Mediaの分析は、「いやいや、たとえ2~3年の間だけの制裁解除でも、その間に経済を回復させることでイラン経済には利益となるのです。」 と言うことを示した。

シナリオ1:核合意再建交渉の崩壊

間接交渉の崩壊により米国の制裁はより厳しいものとのなる。このことで2022年時点に平均150万B/Dあるイランの原油・コンデンセートの輸出は、2023~2026年にかけて100万B/D程度に減少する。ライシ政権が進める近隣外交と抵抗経済で、イランと近隣諸国の貿易が増加することは期待されるが、政府の財政状況は改善せず、経済産業基盤は引き続き浸食され、財政赤字が継続し、資本と頭脳流出が続き、経済の衰退つながると共に、失業率が増加する。

シナリオ2:核合意再建交渉の合意と2025年までの制裁解除

間接交渉が合意され、核合意再建がなされるが、2024年米国大統領選挙の結果、制裁解除は2025年で途切れる。この2022~2025年の制裁解除期間に以下のことが可能となる。

 ・イランは1000億ドル以上の外貨準備への新たなアクセスを得ることが期待でき、国家予算の改善とインフレ圧力の緩和が期待される。
 ・制裁解除期間にイランの原油・コンデンセート輸出は280万B/Dに達する可能性があり、年間650億ドルの追加収入が期待できる。これは政府歳入と国家開発基金を増加させ、石油部門の投資ニーズへの対処を可能とする。
 ・石油部門への投資によりイラン国内の精製能力向上が図られ、イランから近隣諸国の市場への石油製品供給を可能とする。

シナリオ2では、2016年の制裁解除時の経済ダイナミズムが参考となるものの、当時の心理的状況と今日のそれとは異なることを考えれば、シナリオ2の経済ダイナミズムは2016年当時の経済成長には及ばないとする。

主な経済指標についての二つのシナリオ比較

シナリオ1とシナリオ2について、2022~2026年の間のGDP成長率、インフレ率、失業率及び原油・コンデンセート輸出額を比較した。

シナリオ1では、2023年以降の経済成長率は平均2%であり、イランが目指す8%成長を大きく下回り、失業率を維持するだけの100万人の雇用を生み出すことができない。インフレ率は2022年の50%から徐々に低下するが30%に高止まりする。

シナリオ2では、原油・コンデンセート輸出収入はシナリオ1に比べて1840億ドル増加する。この貿易利益により、新たな制裁が始まる2025年までの3年間、イラン経済は一息つくことができる。2025年のインフレ率はシナリオ1の35%から20%に低下するが、失業率はシナリオ1の10.8%から9.5%となり、大きな改善とは言えない。3年間の制裁解除だけでは失業の改善とまではいかない。

Amwaj Mediaに掲載されたこの分析では、「米国の制裁からの一時的な休息さえ、イラン経済の利益となることは明らか」としている。この3年間の休息から得られるものは、制裁が再度課された場合でも、イランの経済の脆弱性を軽減する。

抵抗経済と近隣外交を指向するイランの現指導部が、この分析をどう評価するかはわからない。しかし、欧米協調志向ではなくとも、また一時的ではあっても、核合意再建の制裁解除がもたらすイラン経済への利益は確かにある。

3. 米国の有権者はイランの核開発を止めるためには戦争ではなく外交を好む

Voters favor Diplomacy, Not War, When It Comes to Stopping Iran’s Nuclear Program (by Data for Progress)

トランプが一方的に離脱したイラン核合意への復帰を公約として大統領に当選したバイデンだが、その再建間接交渉は始まって既に14カ月経過しているにもかかわらず、合意に至っていない。その間もイランは核開発を進めているが、このイランの核開発について、またこの核開発を止めるための手段について、今年11月の中間選挙を控えて米国の有権者はどう考えているのか。Data for Progress* が今年7月に行った世論調査の結果を紹介しよう。

*Data for Progress (DFP):2018年に設立された米国の左派系シンクタンク

約半数の有権者が、イランとの新たな核合意締結を支持した候補に投票すると回答

秋の中間選挙で、「候補者がイランとの新たな核合意締結を支持する」ことが有権者の投票行動にどう影響するかについては、全体では45%が「支持候補に投票(紺色と灰色)」を選び、「投票しない(青色と薄オレンジ色)」とする15%を大きく上回る。「投票に影響しない(濃オレンジ色)」としたのは28%。支持政党別では、「支持候補に投票」を選んだのは、民主党支持者では60%、無党派層では39%、共和党支持者では37%となり、民主党支持層で高い。一方で「投票しない」とした層は、民主党支持者では10%、無党派層では15%、共和党支持者でも20%で、共和党支持層であっても多数派ではなく、「投票する」を選んだ層より少ない。

イランが核兵器保有能力を得ることは大きな懸念事項

回答者の80%が、イランが核兵器を製造する能力を得ることについて「やや懸念している」または「非常に懸念している」ことが分かった。これは民主党支持・共和党支持を問わない。

イランの核開発については圧倒的に外交的解決を支持する

回答者は、支持政党を問わず、圧倒的に軍事行動よりも外交による解決を支持している。全体としては78%が外交的解決を支持しており、政党支持別でも外交的解決を支持する層は、民主党支持者では83%、無党派層では79%、共和党支持者でも72%となっている。軍事行動を支持する層は、最も多い共和党支持者でも17%に過ぎない。

イランとの新たな核合意を結ぶことを支持する

イランとの間で新たな核合意を結ぶことを支持するとしたのは、回答全体では2/3 (67%)となる。支持政党別では民主党が82%、無党派層が65%、共和党が56%となり、いずれも多数派となる。有権者はイランの核開発計画を制限する新たな合意締結を支持している。

イランとの新たな核合意を結ぶために議会は柔軟であるべき

イランとの間で新たな核合意を結ぶことに対して、議会はこれを妨げるのではなく、より柔軟に対処すべきとするものが、回答全体の53%で過半数を占める。これは民主党支持者で70%、となる。共和党支持者では39%と少数になるが、それでも原則を曲げるべきではないとする層は49%で、過半数は越えない。

イランの核開発に対しては、戦争や傍観ではなく、新たな核合意締結で制限を

イランの核開発及び核兵器保有に対しては、戦争による阻止、傍観、核合意による制限、の三つの選択肢のうち、圧倒的に「核合意による制限」が支持される。「戦争による阻止」を支持する層は最も多い共和党支持者でも10%に留まる。

イランが核兵器を持つに至った時、それは誰の責任か? バイデン? トランプ? それとも議会?

イランが核兵器を製造するに至った場合、それは米国では誰の責任か? この問いに対する回答者の答えは分かれている。有権者全体では今交渉にあたっているバイデンの責任とするものが33%、2018年に核合意から離脱したトランプだとするものが34%と分かれる。これが支持政党別では、民主党支持者では過半数の62%がトランプの責任とする一方で、共和党支持者では逆に61%がバイデンの責任としている。無党派層ではトランプの責任とするものがバイデンの責任を問うものよりやや多い (トランプ32%、バイデン25%)。

米国の有権者は、イラン核問題について戦争による解決を望んでいない。トランプによる「最大限の圧力」政策の破綻が明らかになっている現在、外交的アプローチをとることだけが、イランの核開発を制限し核兵器保有の可能性を阻止するための、持続可能な解決策を提供する。DFPは、「議会とバイデン大統領は、イランとの新たな核合意が、国際社会の平和に対する強い主張を賭けた、最初の手段の選択肢であることを保証するために、大胆な一歩を踏み出すべきである。」としている。

バイデン政権はこのDFPの世論調査を見ているだろうし、イラン指導部も認識している可能性は高い。米国の世論を下敷きに、今後どのような交渉と判断がなされるか注目すべきだ。

(番外) 『悪魔の詩』作者 サルマン・ラシュディ襲撃事件は核合意再建交渉に影響するか?

8月12日に、「悪魔の詩」の作者であるサルマン・ラシュディ氏が、米国ニューヨーク州西部シャトークアで行われたイベントに登壇中に、暴漢にナイフで襲われた。ラシュディ氏は一時集中治療室に運ばれたが、一命はとりとめた。

サルマン・ラシュディ (写真:AP)

「悪魔の詩」と聞いてピンとくるのは年配の方だろうが、インド系の英国人作家サルマン・ラシュディが1988年9月に出版した小説で、イスラム教の預言者ムハンマドの生涯に着想を得ている。この小説は欧米で高い評価を受けるが、その一方でその内容がイスラム教への冒涜であるとして論争が起こり、出版直後から国内外のムスリムから反発をうけ、10月にインド政府はこの本を発禁とした。この本とラシュディがさらに注目を浴びたのは、1989年2月14日に、イランの最高指導者ルーホッラー・ホメイニーによる著者のラシュディおよび発行に関わった者などに対する「死刑」宣告のファトワーが出されたことによる。ファトワーを出したホメイニーはこの年の6月3日に亡くなるがファトワーは生き続け、その後ラシュディは10年近く潜伏生活を強いられることになる。また1991年7月11日には、「悪魔の詩」の日本語訳を出版した五十嵐一が勤務先の筑波大学で何者かに殺害され、翌日に発見される事件が起こる。この殺人事件の犯人は捕まっておらず、2006年に時効を迎えた。また他の外国語翻訳者も狙われて重傷を負う事件が複数起こっている。その後1998年に当時のハタミ大統領は、「ファトワーを撤回することはできないが、今後一切関与せず、懸賞金も支持しない」との立場を表明している。しかし2019年に最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイはツイッターで、「ラシュディに対するファトワーは取り消すことができない」と述べた。ハメネイは最高指導者となった1990年に「ラシュディに対する「死刑」宣告のファトワーは有効であり、執行されるべきである」と演説している。

「悪魔の詩」 (写真:メルカリ)

ラシュディ襲撃事件の犯人は、ニュージャージー州に住むハディ・マタールという24歳の男性であった。彼の両親はレバノン南部のヤルーン村からアメリカに移住し、彼はアメリカで生まれた。ヤルーン村はレバノン南部のヒズボラが勢力を持つ地域にあり、マタールの家はシーア派であると言う。ハディ・マタールは一度レバノンを訪れた後、SNSでイスラム革命防衛隊の支持を示していたとも報道されている。

イラン政府当局は、外務報道官がこの事件への関与を否定するとともに、「イスラム教の聖なる預言者を侮辱する著者の仕事は世界中の15億人のイスラム教徒のレッドラインを軽視するものあり、誰もイランを非難する権利はない」と述べた。イランの保守派各紙は、襲撃を称賛する記事を掲載している。また、この事件が進行中のイラン核合意再建交渉の最中に起こったことに、「奇妙な事件」と評する者もいる。

とにかくも、過去の暗闇から突然沸き上がったような事件であり、結果として西側諸国でのイランに対する評判を貶めている。米国務省は14日に声明を発表し、メディア報道を含むイラン側の対応を批判した。英国の次期首相候補の一人のスナクは、「サルマン・ラシュディへの襲撃は西側の警鐘であるべき」、「我々は緊急に、新たな強化された協定とより厳しい制裁を必要としている」とイラン核合意再建交渉に言及している。ラシュディが一命をとりとめ、回復しつつあることから、この事件の核合意再建交渉への影響は限定的であろうが、こうした予期せぬ事件でも交渉は崩壊し得るほど、脆弱な基盤の上にイラン核合意再建交渉は成されている。

  • 『悪魔の詩』の作家 ラシュディ氏 米の講演会場で男に刺される
     NHK、2022年8月13日
  • ラシュディ氏襲撃犯を称賛 「背教者」刺され「喝采」―イランメディア
     時事通信、2022年8月13日
  • ‘This deserves congratulation.’ Hard-line supporters of Iran’s religious leaders praise the attack on Rushdie.
     New York Times、August 14, 2022
  • Rushdie attack a 'wake-up call' on Iran, says UK PM candidate Sunak.
     Reuters、August 14, 2022
  • Apostate author Salman Rushdie; Clandestine life like Satan
     Mehr、August 14, 2022
  • Iran says Rushdie and supporters to blame for attack
     Reuters、August 15, 2022
  • 「悪魔の詩」著者襲撃事件 米イラン間で緊張高まる
     日本経済新聞、2022年8月16日

(以上)

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