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サドル師の「政界引退表明(また?)」で増すイラクの混迷 -それでも日々は続く 同じことを繰り返しながら-

2022年 9月 2日

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企画調査部 布施 哲史

内容

8 月29 日に、イラクのシーア派政治勢力の中でも対外強硬派であるサドル派の指導者 ムクタダー・アル・サドル師が、政界からの「完全引退」を表明(以前にも引退表明を繰り返してきた)。この後、サドル派支持者数千人及び武装したサドル派民兵がバグダッド中心部のグリーン・ゾーンに押しかけ、大統領宮殿などに押し込み、出動した治安部隊と衝突した。メディアによればこの衝突で少なくとも30 人が死亡し、350 人以上が負傷した。この騒乱は南部諸都市でも起こり、サドル派デモ隊により対立する他のシーア派勢力の事務所などが襲撃されている。事態はイラク政府が全土に外出禁止令を出すまでになったが、8 月30 日にサドル師が抗議行動を中止するよう命じたことで、サドル派支持デモ隊がグリーン・ゾーンから退去し、事態は一旦の治まりを見せた。

この騒乱は一体何だったのか? メディアの報道・分析などを追いながら検証してみる。

1.2021年10月国民議会選挙後のイラク政治の混乱おさらい

① 多数の死傷者が出た反政府抗議デモの責任を取って、2019年末に辞任したアブドゥルマフディー前首相の後を受けて成立したカディミ政権は、2022年に予定されている国民議会選挙を、前倒しして2021年10月に実施した。

② 2005年以降の議会選挙に基づくイラク政治は、国民の多数派であるイスラム教シーア派の政治勢力が議席の多数を得て政治を主導するが、その政府はスンナ派政治勢力、世俗勢力及びクルド人勢力などの諸政治勢力を包括する「挙国一致政府」が形成されてきた。

③ 2021年10月の国民議会選挙で、329議席中73議席を得て議会第1 党となったサドル師を指導者とするサドル派の政党「サドル潮流」は、これまでの「挙国一致政府」に代わり、議会多数派による政府の樹立を目指し、スンナ派(進歩党 37議席)・クルド人勢力(クルディスタン民主党31 議席)との連立交渉を行う。これに対して同じシーア派政治勢力であるが、ヌーリー・アル・マーリキー元首相に代表される、これまでのようなシーア派が主導する挙国一致政府を作ろうとする勢力(主として親イラン勢力で、法治国家連合(33議席)やファタハ(17議席)等)は、シーア派政党連合「調整枠組み」を作り、サドル潮流の多数派工作に対峙する。

④ サドル潮流と調整枠組みの対立は2021年国民議会選挙から半年が過ぎても解決の見通しが立たず、大統領選出と首相指名に必要な議席数を確保できないことで新たな政権ができずに、イラク政治は停滞する。この混乱の中、サドル師は議会政治から撤退すると発言し、6月12日にサドル潮流所属議員は一斉に辞表を提出し議員辞職する事件が起こる。この一斉辞職は認められ、繰り上げ当選者が新たに起因となるが、これで調整枠組み傘下の議員数が増加する。

⑤ 調整枠組みは7月25日にマーリキー元首相に近いと言われるムハンマド・シヤーウ・スーダーニを首相候補に決め、7月30日に議会を開いて大統領選出とスーダーニの首相指名を行おうとした。

⑥ 調整枠組みの動きに対して、7月27日にサドル師はスーダーニの首相指名に反対を表明した。サドル派支持者はこのサドル師の発言を受けてデモを組織しグリーン・ゾーンに侵入して国民議会を占拠する。デモ隊は同日中に撤収するが、7月30日に再度国民議会を占拠する。これにより、予定されていた首相指名議会は開催されなかった。サドル派の国民議会座り込みはその後も続いた。

⑦ サドル師は、国民議会の解散と早期選挙の実施を主張し、最高司法評議会に対して国民議会の解散を命じるよう要求する。しかし最高司法協議会は、「議会を解散する権限はない」として、8月14日サドル師の要求を退ける。この司法の判断に対してサドル派支持者の抗議行動は最高司法評議会に向かい、襲撃・座り込みが行われる。これは8月23日のサドル師の要求で撤退した。

2.サドル師の突然の「政界完全引退」表明とイラクの混乱 「表面の事象」

8月29日、サドル師が、政界からの完全引退と一部を除いてすべての関連施設の閉鎖を、ツイッターを通じて発表した。このツイッターでサドル師は、改革を求めるサドル師の声に耳を貸さない他のシーア派政治指導者を批判した。

その直後にサドル派支持者数千人がグリーン・ゾーンに侵入し、大統領宮殿などに乱入して、治安部隊との間で衝突が発生した。サドル派支持者の中には武装したサドル派民兵も入っており、更にはサドル派と対峙する調整枠組み勢力傘下のシーア派民兵もグリーン・ゾーン内外に展開して、双方の間で発砲事態が起こっている。

混乱は南部バスラなど首都以外にも広がり、サドル派と対峙するシーア派勢力の事務所が放火され、ナシリヤやヒラーではサドル派が政府庁舎に突入し、ウム・カスル港の入り口を封鎖した。

イラク政府は全土に外出禁止令を出した。カディミ首相は、デモ沈静化への協力をサドル師に呼び掛けた。この混乱は、翌30 日にサドル師が抗議行動を中止するよう命じたことで、サドル派支持デモ隊がグリーン・ゾーンから退去し、一旦は治まりを見せた。

  • イラクでサドル師派と親イラン派が衝突、少なくとも17 人死亡
     ロイター、2022年8月30日
  • イラク首相府をサドル派襲撃、治安部隊と衝突 27 人死亡、負傷者も
     朝日新聞、2022年8月30日
  • イラク首都で衝突、15人死亡 サドル師派と親イラン派、治安部隊―政府機関にデモ、発砲
     時事通信、2022年8月30日
  • イラクで衝突 サドル師支持者ら22 人死亡、首相府占拠
     日本経済新聞、2022年8月30日
  • 中東かわら版 №77 イラク:ムクタダー・サドル師の政界引退表明とその余波
     中東調査会、高尾 賢一郎、2022年8月30日
  • 中東研ニューズリポート イラク:サドル派が再びグリーン・ゾーンを襲撃、衝突が拡大
     日本エネルギー経済研究所中東研究センター、吉岡 明子、2022年8月30日
  • サドル師が支持者に抗議行動中止命令、イラク首都での衝突受け
     ロイター、2022年8月31日

3.サドル師の突然の「政界完全引退」表明とイラクの混乱 「サドル師のこころは」

しかし、7 月のサドル潮流議員の総辞職といい、今回のサドル師の政界完全引退発言といい、いったい何を考えての行動なのだろう?

イラク政治の『影の王』になる! (?)

その推察の一つが、ユーラシア・グループのアイハム・カメルや多くのメディアが指摘していることだ。

これは、「サドル師は、自らに大衆を動員して内戦をも引き起こすことができる力があることを見せつけ、イラクの政治システムを再構築して、重要な決定に対して拒否権を握る『影の王』になろうとしている。」という解釈だ。またカメルはこれを「イランの最高指導者の地位とほぼ平行する」と指摘している。サドル師がこのポジションを得るということは、調整枠組みに集まった親イラン・シーア派諸勢力の間に存在する相互の多様性と利益配分の許容という核心的利益が棄損されることを意味する。

サドル師が『影の王』を望むなら、マーリキー元首相に代表される親イラン・シーア派諸勢力との間には、一時的な妥協はあっても、長期に持続する融和策は存在しない。またその対立は、マーリキー達の後ろ盾であるイランの利益・思惑とは別の次元で進行することも考えられる。両者の構造的ギャップは深刻な対立を招く恐れがあり、ユーラシア・グループはイラクが内乱に至る確率を「40%」としている。

  • De-escalation will follow armed clashes in Baghdad
     Eurasia Group, Ayham Kamel, August 30, 2022

サドル師はサドル派を完全掌握しているのか?

IHS Markit のザイネブ・アル・アッセムは8 月30 日の記事で、この29~30 日のサドル師の行動について、30 日の声明は彼がサドル派支持者及びサドル派民兵のエスカレートした抗議行動から距離を置くことを狙って発せられたものであり、そもそもサドル派が引き起こした今回の暴走は、サドル師の明確な指示のもとに行われたのではない可能性に言及している。よって、30 日のサドル師の声明は「自己保身」と見なせるとしている。

サドル派の、多分一時的な、後退は、調整枠組みグループの力を強化し、調整枠組みが指向する首相選出を可能としうるが、サドル派は再度これを阻止すべく、今回と同様の動きを取るだろう。エスカレーションに治安部隊が本格的に対処した場合は、その衝突はシーア派内部の抗争から、サドル派と国家の対立となる。

  • Sadr’s intervention will prevent escalation of inter-Shia fighting but Iraq’s weak state institutionsrisk further violent confrontation
     IHS markit, Zaineb al-Assam, August 30, 2022

サドル師の焦り 宗教指導者の後ろ盾を失う

もう一つの見方は、Amwaj media が書いているカージム・アル・ハーエリー師の引退とサドル師への批判との関連だ。

ハーエリー師はサドル派の宗教的権威と見なされてきた人物で、サドル師の父でサダム政権時代に弾圧・殺害されたムハンマド・サーディク・アル・サドル師に師事したシーア派のグランド・アーヤトッラー(高位聖職者)である。ハーエリー師は1970 年代からはイランに亡命してコムで宗教活動を続けている。サドル師は宗教指導者としての地位は高くないことから、ハーエリー師がサドル師を後援することは、サドル師自身の宗教的位置づけを高めることとなっていた。

このハーエリー師が8 月29 日に、健康と体力を理由とする自身の宗教活動からの引退と、サドル派支持者たちに対してイランの最高指導者ハメネイ師を「我々の国民の指導と侵略者を排除するための最良の人物」と呼んで、ハメネイ師に従うように指示する声明を出した。ハーエリー師の声明の中には、サドル師に言及したと思われる「イジティハド(宗教的裁定を推測する能力)や宗教的リーダーシップのための要件が欠けている」という言葉がある。サドル師の政界完全引退声明はこのハーエリー師の声明の後に出されている。

サドル師はこのハーエリー師の声明に対して「私の認識では、辞任は彼自身の自由意思によるものではない」と述べており、言外に「イランの圧力」があったと言っている。また「聖なるナジャフはマルジャイヤ(シーア派の宗教的最高権威)の最も顕著な本部」と述べて、ハメネイ師(=イラン)の指導を否定した。(ナジャフのシィースターニー師なら従うと言う意味もあるのか?)

とにかくもサドル師にとってハーエリー師の宗教的後援を失うことは大きな痛手であり、同日の政界完全引退表明は、彼の急ごしらえの対応だったのではないか。また更に考えれば、サドル派支持者の過激化は、支持者やイラク社会に対して、サドル師が宗教的後ろ盾を失ったことから目をそらせるための、サドル師が命じた衝動的な策動なのかもしれない。

  • Deep Dive: Iraq’s Sadr declares ‘final retirement’ as street politics escalates
     Amwaj Media, August 30, 2022

サドル師の「ムハッラム革命」の頓挫

色々な解釈がある8 月29 日騒乱だが、6 月の議員総辞職から通しての流れでサドル師が何を狙っていたのかについて、イラク政治経済アナリストのアリ・アル・マウラウィがAmwaj media に載せた分析がある。

マウラウィによれば、サドル師は7 月30 日からの国民議会占拠等の行動を「ムハッラム革命」 (ムハッラム=ヒジュラ暦の最初の月の名前。この月の10 日にシーア派の宗教行事アシューラーがある。2022 年のムハッラムは7 月30 日日没から8 月27 日日没まで) と呼んでいた。サドル師はこの革命を通じて、イラクの権力バランスを彼に優位な方向に変えることができる考えていたと言う。マウラウィの分析では、2021 年10 月の国民議会選挙でサドル潮流が議席を増やして議会第1 党になったとはいえ、その得票数は前回2018 年選挙で得た130 万票から88.5 万票に減少した。これはそもそも投票率が42%と、これまでの選挙から大きく下げたことが影響しているのだが、支持基盤が固いと言われるサドル派でも投票率低下の影響を免れることはできなかったと言うことであった。更には、サドル師が対立するマーリキー元首相の調整枠組みは、参加政党の得票数合計は165 万票であり、サドル潮流の約2 倍ある。支持の枠組みとしてはこれだけの差があるので、サドル師としては何とかこの調整枠組みを分断したかった。

しかしながら国民議会での多数派形成は行き詰まり、6 月にサドル師はサドル潮流議員を総辞職させるが、これは「もはや正式政府樹立の交渉当事者にはならない=別のアプローチをとる」というサドル師のメッセージであったと解釈される。そして7 月末からの国民議会占拠でサドル師は「ムハッラム革命」という言葉を使い始めるが、これはこれが「サドル派(だけ)による革命」ではなく、サドル派以外の人々にもサドル派の運動に参加するよう求めるアピールであったと解釈する。この戦略は、2019 年末にアブドゥルマフディー政権を倒した反政府抗議行動を主導した若者層へのアピールであった。しかしこの戦略は実を結ばず、ムハッラムの月は終わってしまった。ムハッラムの末期の最高司法評議会への圧力も不発であった。そしてムハッラムが終わり、ハーエリー師の引退とサドル師批判により、サドル師は「ムハッラム革命」の失敗を認識せざるをえなかった。

  • Understanding Muqtada Al-Sadr’s ‘revolution’ gambit
     Amwaj Media, Ali al-Mawlawi, September 1, 2022

4.それでも日々はつづく 同じことを繰り返しながら

マウラウィの分析により頓挫したことにされた「ムハッラム革命」だが、それでもサドル師が得たものがあるとすれば、「サドル派の動員力は内乱を引き起こせるだけの力がある」ことを改めて示したことであろう。サドル師(サドル派)をイラク政界から排除しようとすればイラクが不安定化することは、イラク内外の再認識するところとなった。またこの騒乱が起きて内乱に至る状況となった時、これを収める方法は、2019 年末の時のようにまたナジャフのグランド・アーヤトゥラーであるサイイド・アリー・フサイニー・シィースターニー師にお出ましを願うしかないだろう。

当面の対処として、イラクの諸政治勢力の中で何らかの妥協の模索が試されるのであろうが、主要政治勢力であるシーア派政治勢力間の対立が深まっている中では、妥協でもその実現に向けたハードルは高い。また、サドル派が司法に求めた国民議会選挙の再実施にしても、2021 年選挙の結果から大きく変わるような展開は望めない。投票率はさらに下がるかもしれない。そういうイラクの現状では、今後もまた同じことが延々と繰り返されていくことが考えられる。

高油価が続く中でイラクの石油収入は記録的な高水準にあり、6 月の石油輸出額は115 億ドルに達した。しかし今回の騒乱はシーア派勢力の内部対立として、シーア派住民が多数のバスラなど南部の油田地帯や中部諸県にも広がった。南部の石油生産と石油輸出は今のところ影響を受けていないが、ハルファヤ油田などいくつかの南部油田では抗議デモ隊が押しかけている。

サドル師も含めて、イラクの政治エリートたちは今の高石油収入がイラクの諸問題のいくつかを緩和しており、またこの分配が己の政治勢力の力の源泉であることを理解しているので、抗議行動から油田や石油輸出施設を保護することの重要性は理解しているはずだ。しかしイラクにおける不安定さの継続は、今後短期的には石油生産と輸出に混乱を生じさせる可能性があり、長期的にはイラクのエネルギー部門への外国投資の減少を招き、イラクが目指す石油・ガスの生産量引き上げのための諸投資、並びにガスフレアリングの廃止のための投資を妨げるだろう。事実、1 年前にTotalEnergies との間で合意された、総額270 億ドルの油田開発・随伴ガス回収施設・大規模海水処理ユニット・再生可能エネルギーからなるパッケージ契約は、カディミ首相の暫定政権の下では実行に移すことができないでいる。有意義な事態の変革が起こらず、イラクの現状が続く、又は徐々に悪化していけば、南部の油田や石油施設が抗議行動の標的となる時のあることを十分に認識しておく必要がある。

  • Unrest Spares Iraqi Output, But Highlights Risks
     Energy Intelligence, August 30, 2022
  • 混迷を深めるイラク:サドル師「引退表明」の狙いは何か
     Foresight、2022年9月1日
  • Iraq's Political Crisis Pushes Baghdad to the Brink
     Energy Intelligence, September 1, 2022

(以上)

免責事項:本稿は著者の個人的見解であり株式会社INPEXソリューションズの見解ではありません。